昭和51年02月09日 朝の御理解



 御理解 第7節
 『天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。』

 昨日朝の御祈念を終わった後のお届けの中で、久留米の佐田さんがこんなお届けをされました。「今日の御祈念中に、お知らせを頂きました。それはあのイカのお知らせ。そのイカがタコになっていく所をお知らせに頂いた」ちゅうんです。「あらあんたそげなお知らせ頂くなら私もほんに、今日の御祈念中頂いとったけれど、忘れとったけれど、私も今日はイカのお知らせ頂いとった」と言うてまあ2人で話した事でした。私はあのイカとスルメを頂いとったです、昨日の朝ね。
 久留米の佐田さん達がまあ昨日のお話の中にも申しましたように、昨日あちらの久留米地区の共励会です。佐田さんのお宅でまあ月に二回ずつ、まあみんなもうとにかくあちらでの共励会はもういつも素晴らしいて。もう参加した者がみんなおかげを頂く。矢張り中心になる人の信心だと思うんですけれども。その中で。「昨日親先生が、朝の御理解の中に、久留米の佐田のことを言うて話して頂いたが、実はあんなに詳しくは前の日に言うとらなかった」と言うわけですよね。
 主人の事がこの寒修行に例えばかけられた、まあ言うならば柔道と同じ事でまず投げる稽古よりも投げられた時にケガせんように、その投げられる稽古にかけようと思うた。所がそれこそほんとじゃあるだろうかと、言うなら真実性を欠くほどしの、反対におかげの方に現れてくる。もうそれはひとつひとつのそのおかげ話を言うならきりがないような、ま、おかげを頂いておるというお話をされた昨日の共励会で。
 「親先生は私の腹の中、まだ言いたい事言うていない事まで、昨日はお話になった」と言う事でございました。ね、例えばならそう言う様なおかげを、まあ受けられるようにだんだんなってみえて、しかも一家をあげてのあのような信心ができられるようになったのは、丁度合楽教会がこちらに移らせて頂いて、まあ九年になります。足掛け、ね。一番始めの寒修行でしたでしょうか。夏の修行だったか寒修行だったと思いますね。朝お参りをして、寒修行だったでしょうね。
 寒修行に「この寒修行はどうでもひとつ、家族中でお参りをさせて頂こうじゃないですか」と家族中の者が話し合って、勿論寒修行期間の積りであった所が、ね、それ以来なら佐田さんの一家のご信心が、今日まで九年間寒修行にかけられた、その信心の修行が今日まで続いておると言う事ですよ、ね。それはどう言う事かというと、矢張り「寒修行は有り難い」とか、修行に参加さしてもろうたらおかげを頂いたから、そのおかげの味を占めて今日まで続いておるというのではなくてです。
 例えば今日は御理解7節の所を頂きますとね、「天地日月の心になる事肝要」だと言われる、もう一番肝心要の所の言うならば、お道の信心の一番大事な所と思われる所がですね。私分かられたからだと思いますね。九年前の寒修行の時にね「一月間家族中で家族をあげて寒修行に取り組みましょうや」と言うて取り組んだ。そして一月後にはもう止めるに止められなくなったと言う事は、お道の信心の有り難い事素晴らしい事。
 今日の御理解から言うなら「天地日月の心になる事肝要」だと言われるような、限りなく美しゅうなる稽古であり、限りなく黙って受けて受けて受け抜く稽古でありね、それこそ日月のようにです、狂いの無い実意丁寧な信心と言う事がですね、その一月間の寒修行の間にね、はっきりその事だけではございませんでしょうけれども、そういうお道の信心の一番有り難い所が分かられたから、その寒修行が今日まで九年間、しかも家族中で続いておると言う事だと。ね。
 私は昨日親教会の、皆さん御参拝を頂きましたように、親先生の一年の式年祭でしたから、合楽からも沢山お参りをして頂きました。もうほんとにおかげを頂いて、合楽がほんとありゃああいうお参りができとらなかったら、もう実を言うたらとっても淋しい事だろうと私は思いました。というのは沢山ご案内が六十の教会に、先生方に案内が出してあったんです。所がもうほんとに思いのほか少なかったです。第一あの善導寺の教会のご信者さん方が、お参りがほんとに少なかったです。
 あぁほんとに合楽であれだけお参り頂とったおかげで、ほんとにまあおかげを頂いたと私は思いました。いうなら、まっ面目を施したわけでございましたけれども。昨日はまああちらの親戚の方達からも、まあほんとにあの、まっ言うならば「合楽のおかげで」と言った様な意味でのご挨拶をまあ受けました。暫く鹿児島の行徳先生とも、あのまあ色々お話さして頂いたんですけれども。「大坪さん、あなたますます顔色の艶が良くなって、御神徳を受けていくと有り難いの」ちゅうて言われました。
 これはお世辞じゃなかろうように思いました、ね。私はほんとにね信心「生きたくば信心して長生きをせよ」と仰る事はね、信心する事によって魂が清まるのです。ね。例えば、人間の値打ちというのは器量とかそんな事じゃないと思うです。ね、心が輝き出してくる。だから言うならば、ね、人相にも顔艶にも現れて来るんだと私は思うです。ね。それがただ、んならおかげ信心ではとてもそう言う事にはなってこないと思う。まあそんなわけでしたから昨日は。
 研修ができておりませんでしたから、丁度昨日私ここへ夕方の六時から奉仕しました。ね。6時でしたかね五時でしたでしょうか。ね。そして夕食みなすまさしてもろうて、八時の御祈念まで、七時から研修する事にしよう、と言うてまあ何時もの様に全部、先生方修行生の方みんな集まって、まっ研修させてもらいましたが、その研修の始まる前に、私がねまあ言うならば普通で言うあれ、私の信心を知らないならば「もうたんびたんびに親先生が恩着せる」と言う様な事を思う様な話を必ずするんです。ね。
 先日からもみなさんに聞いて頂いた様に「宗教というのは、ね『ウ冠に示す教え』と書いてある。本当の宗教というのは天地乃親神様が所謂ウ冠。ね、天地が示して下さる事を、それを皆んなに示し教えていくのがほんとの宗教だ」と。自分の頭で考え出したりね、言うならば学問から割り出された教えとか、宗教とかとね。例えばシナの儒教なんかはそうですよね。これはもう頭から言うならば道徳的な観念をつくっていく。仏教の信心なんかでも「お釈迦様の思索から生まれた」と言われる宗教です。
 いわゆる哲学です。ね。そういう意味において、なら金光教の信心はそれこそ「天地金乃神様からおかげを受けた、受けた事を話にして残しておくのじゃ」と仰る。所がんなこの教典の全てがです、ね。例えばこれを金光教の事を悪く、悪い意味合いで批判する人達はです「金光教の教典は非常に貧しい」と申します。ね、第一その教えがね、もう世間一般の、まあ道徳的な事やら、昔からある金言なんかの様なものを集めた様な物だと申します。私は創価学会の、金光教を悪く言わねばならない学問があるわけです。
 創価学会には。天理教は悪く言わんならん。他の宗教は全て悪く言わんならん、その金光教の場合には、そういう通りです「金光教の教典はもう、第一貧弱だ」と「貧しい」と。「しかもあれは道徳的な事を、昔からある金言を集めたようなもんだ」とそげん言うて悪口を言ってますよ。ね、所がどっこいならこの教祖様のこの言うなら、こんなに薄っぺらな教典ですよ。その如何にも金言にも、道徳的なお話にも似ておるけれども、その神意の深さ深さ、広さ広さとてもとても限りがないです。
 いわゆるお釈迦さんでもキリストでも説き得てないような素晴らしい「天地の大法則」が説いてある、大哲理が説いてある。ね。天地の神恩、神徳が説いてあるです。それをならここでは、言うなら三十年近く私は毎日毎日、この経典だけに取り組んで、まあだまあだ説き明かし切ってないです。恐らく私は一生がかりで説いても、まだ説き明かせないでしょう。ね、しかも教祖の神様が、天地金乃神様よりお知らせを頂かれて、話にして残しておかれる、そのお話がこの教典であり。
 その教典をまた、私が神様からお知らせを頂いて、ね。金光大神のこの御教えの一ヶ条一ヶ条の深さ広さをみなさんに聞いて頂くのですから、これこそ真の宗教だ。ね、だから、そういう間違いのないお話をみなさんは頂いておるのであるから、研修にするにあたっても、ただ研修勉強じゃない。ほんとの宗教を教えて頂くんだと思うて、ね、有り難い姿勢をもって、研修にかからなきゃいけないよ、というんですから。これは他のもんから聞きよったら「えらい恩着せなさる」と言う事になるでしょうね。
 けれども、事実なのですから。昨日も私はその話を冒頭にいたしました。とにかく教えというものはです、人間が実践しようと思えば、誰でも実践できる教えでなからなければならない、と言う事が条件です。例えば仏教では「五戒」キリスト教では「十戒」と言った様な、もうとても人間ではとても、ね、それはやっぱ本気になりゃできんことないでしょうけれども、誰でもがとても真似のできると言う事では、実行できない様な厳しい、言うなら戒律がございます。
 もうこれだけでも、言わばほんとうの、言うならば人間が幸せになる為にする宗教には、もう漏れておるというても過言じゃないです。いいですか。ね、仏教の「五戒」キリスト教の「十戒」成程お道の信心にも、ね、「御神誡」というのがあります。所が御神誡のその十二ヶ条あります、その十二ヶ条の一ヶ条だってです「それはとても私どんできん」というごたるのは一ヶ条でもないと言う事ですよ。ね。
 私は信心には、の宗教のうちの教えの素晴らしいと言う事はです、その気になれば人間誰でもが実行できるような御教えでなからなければならない。いわゆるね、普遍性に富んだ教えでなからなければいけないと言う事です、ね。言うなら日本人だけではない、世界のどこの国に持って行っても通用する御教えでなかにゃいけないと言う事です。そういう意味で素晴らしいです。ね。
 例えば食物訓なら食物訓ひとつをとってもそうです。「食物は、みな人の生命のために、天地乃神がつくりあたえたもうものぞ。何を食うにも飲むにも有り難く頂く心をわすれなよ」と。これはもう世界中の人類のすべてにです、この話をするなら「はあ、ほんとにそうだ」と思うだろう、と思うです、ね。例えば仏教だってキリスト教だって、まあいつもそれが相手になりますけれどもね。「あれを飲んではならん、これは食べてはならん」ということがひとつもないということです。
 人間の命の為に牛肉でも豚肉でも、ね、言うなら人間の命の為にお酒でも頂かしてもらうんだというのです。ね。それを例えばね、ほらもうお醤油でん何でんこうやって、ね、もうそれこそ濯いで頂かにゃ罰かぶる、ちゅうごたる事がないのです、金光様のご信心には。もちろんお粗末にしてはなりません。天地の御物である事が分かれば分かるほど、そりゃ醤油の一しずくでも大事にしなければおられんのが信心ですけども、それをしてはならんと説いちゃないです。
 食物は人の命の為に与えてあるのであるから、ね。有り難く頂く心を忘れな、と説いてある。ね、例えばならアメリカの人達にです、ほら食物はそんなん大事なものだから、もう洋食皿にこう入るっとる。ソースでんとまケチャップでも綺麗に濯いで洗うて飲まにゃならんでんなんて言うなら、もうそれだけでも「金光様の信心は嫌」と言うでしょうね。そう言う事じゃないです、むしろ余ったならそれを腹いっぱい食べてしまう様な事いけない。ね、命の為に頂けよと言ってるんです教祖様は。ね、
 そういう意味でです。普遍性に富んだ御教えです。ね、次にはね妥当性がなからなきゃいけません。どの御教えを頂いても「成程、成程」と合点のいくような教えでなかにゃいけません。○○様の信心をすりゃ、家を建つる時にまず方角ば見らんなん。ね、日柄を言わなゃならん。どんなに考えたって妥当性のない宗教ですね。例えばそう言う事を言う、そう言う事を看板にしとる宗教すらあるんですよ、ね。
 例えば先日はあらなんですか。「鬼は外福は内」が、ね、これなんかは厄除けと言った様な事をまじなう宗教です。おかしいでしょう。ね、厄なんかが大体ある筈ありません。ね、それを人間が自分勝手に作って、人間の生き方を狭くしておるような宗教すらがあるくらいです。ね、まじないなんかとても、言わば現代人の私達がです、ね、合点の出来ない様な事もあるけれども人間の弱さです。ね、矢張り「さあ自分方の家を建てる」と言や「自分方息子に嫁ばもらう」と言や日柄を言うたり方角を言うたり、ね。
 するでしょうおかしな話です。ね、金光教のお話を頂くと、そう言う様な事が、さらさらない事を説いてあります所に、妥当性があるというわけです、ね。宗教の素晴らしい私は宗教はね、そういう「誰でもが実行すれば実行できる」という内容の教えであらなければならないと同時にです、普遍性と妥当性を持ったものでなからなければならない。実生活の上にです、ね。それが実験できる。ね、実生活の上に実験できる。
 そして「そこにおかげを実証していける」と言う所が素晴らしいです。ね、もうこの辺に成って参ります時にです、ほんとに合楽に御神縁を頂いておると言う事の素晴らしさが愈々分かるです。教えはどんなに素晴らしく教えを説いておっても、説く人その人がです、難儀をしておると言った様な事ではね、実証しておるとは言えないでしょうが。「こげなふうすりゃ健康なるんですよ」「こげんすりゃ儲け出すですよ」と教えたっちゃ説く人自身が貧乏しておるようではおかしいでしょう。ね。
 合楽では私自身が、教祖様の御教えを実行して家族円満で、ね、言うならば貧・争・病のない、いや真善美に輝かんばかりのおかげを、言わば私が頂いて現しておると言う事なんです。ね、だから「これを見て下さい。皆さんもこの通りに実行して行きゃおかげが受けられます」と言えれるものでなからなければならないというのです。皆さんが「合楽示現活動」に参画されてです。
 人に伝えお話をしていく時に、まずここん所をお話になって、自分も又それを信じて、又自分もそれを現していけれるおかげを頂かなければ、人は付いてきません、ね。誰でも実践できるもの。誰でもね。それから普遍性に富み、妥当性がなからなければならない。しかも、それが日々の実生活の上にです、ね、生活と一体となる。信心生活ができる。しかもその信心生活をしただけじゃない、信心生活をさしてもらうとです、商売は繁盛をし、病人は健康になり、家庭は円満になり、ね。
 難儀なことが段々なくなって、人間の幸福の条件がひとつひとつ足ろうてくるという、言わば実証がなされる宗教でなからなければ、ほんとの「生きた真の信心」とは言えないと言う事になるのです。昨日の御理解の言うなら「真心の」ね「道を迷わず失わず、末の末まで教え伝え」と仰るのは、そういう信心を私どもが頂いて現して行くのですから、子供でも孫でも付いてこなければおられない、と言う事になるのです。だからこの事を昨日の信心の実習の冒頭に私は話しました、ね。
 例えば同じんなら金光教でもですよ、それを実証し得てない人がいくら教学的に、頭で説いたって、おかげが伴わなかったら、説いとる人自身がおかげを受けていなかったら、もう値打ちはないです。ね、そういう意味で私は「合楽に御神縁を頂いておる人達は、目の当たりに、その手本を見本を見て稽古ができる」と言う事が素晴らしい。「あんた達はこういうおかげを頂いておるのだから、研修するにあたっても、その事ばいっちょ有り難いと思うて研修せなでけないよ」と言うて私は冒頭に申しました。ね。
 だから合楽以外の人が聞いたら、まあ実際まあ「ほんとに毎日毎日、研修の前に親先生が恩着せてから話しござる」と言う事になるでしょうけれどもね。恩着せとるとじゃないです。ほんとにそうなのですから、そういう姿勢で頂かなければいけない、と言う事です。勿体ないと言う事です。ね、そういう信心がです例えて言うならば、佐田さんは九年前の寒修行の時に一家中で、金光教の信心のそういう、私が言うたり現したりしておる事実をです、言うなら「天地日月の心になる事肝要だ。」と
 言う様な信心に焦点を置いて、修行をさして頂きよれば、そういうおかげが受けられる事実を目の当たりに、見たり感じたりしたからこそ、私は今日までしかも一家中で続いてるんだというのです。昨日佐田さんが頂いておられるようにです、ね。イカがタコになった。まあ漫画のようなお話ですけれども、ね。私が「そらほんとに佐田さん。私も今朝方頂いたよ。私がたイカとスルメじゃった」ね。まるっきり語呂合せごとあるけれどもです、私が頂いたのはです、言うならば、ね。
 「いかん事はするめぇ」と言う事だと申しました。ね。「はあこげなことじゃいかん。こげなことじゃいかん」と思とる事があるなら、もうやめたらいいじゃないか、と言う事です。本気でひとつ神様にお願いをしてやめろと言う事です。ね、皆さんこげなこっちゃおかげ頂かんて事は分かっとるばってん。分かっとるなら改まる事に一生懸命にならじゃこて。例えば昨日の御理解で言うならです、合楽に欠けとるものはです、ね、言うなら辛抱力が欠けておると分かったら。
 本気でそれこそ泣く泣くでも、辛抱力をつくって辛抱の徳になってくると、それが今までできなかった事が有り難く出来て来る様になるです。私は佐田さん当りがなら九年間も朝参りが、こうやって一家中でしかも続いておると言う事はです、ね、やっぱりもう有り難うなっておられるから、やめるにやめられないのに、事になっておられるのじゃなかろうかと思います。ね。佐田さんが昨日頂いておられる、例えば「イカがタコになった」と言う事がどう言う事かというとね。
 佐田さん一家の言うならば魅力とでも申しましょうか。ね。神様が言うならば、惚れ込みなさるごとある魅力というのがです、ただ今申しましたような、ね、「はあもう寒修行が終わったけん。やれやれ」と言うのではなくて、そこを押してしかも九年間も続けてこられたと言う所にです、神様がそれこそまあ言うならば、惚れ惚れとしておんなさる。「タコ」と言う事はあれは「吸い付く」ちゅう事です。ね、タコのいぼありましょう。それこそ「吸い付きたい様な好きな方」というのが歌がありましょうが。
 「吸い付く」ということは「魅力」ということです。ね、言うならばいかん事は改めて、しかもこの様にして、ね、ただ一回の寒修行にと思うておったその寒修行が、九年間も、毎日毎日続けられておると言う所に、神様が魅力を感じておられるからこそ、家の徳を受け身の徳を受け、そして今日あの様なおかげを頂いて、段々あらわしておられる。実証して言っておられる。
 佐田さんの話を聞くとです必ず実証がある。しかも「ほんなこっちゃあるじゃろうか」というような、言わば証を立てていかれておる。まあ少し佐田さんの事を誉め過ぎましたかもしれんけれどもね。やっぱりその誉める時は誉めんと誉めたごたなかもん。悪口言う時は、徹底して悪口言わにゃさい、悪口にならんですからね。まあそこにきゃどうぞ、皆さん加減して頂いてもらわにゃならん。ね。
 けれども私はばさりと誉め過ぎとは思わんです。佐田さんの信心は。ね、言うならばほんとの合楽の信心の成功方とでも申しましょうか、と言った様なものをです、そら人間ですから欠点は沢山あります。ね、けどもそういう言うならば、今日の御理解で言うなら「天地日月の心になる事肝要だ」という、そこん所に焦点を置いて、本気で信心の稽古をしておられると思います。
 今日は「天地日月の心になること肝要だ」と言う所をです、ね。そこにま焦点を置いてお話を聞いて頂きましたが、ほんとに有り難いと思います、ね。寒修行が今度は三十五日でしたか。三十四日でしたか。三十ね四日間は言うなら神様におまけしたような修行でしたよ。信心にはこのおまけがなかにゃいけませんです。ね。もうやっとかっと「もうまけといて下さい」ちゅうごたるとじゃいかんです。ね。
 だから神様が三十日と言われたなら、なら神様の方へ「四日間まけときましょう」というごたるふうな、言わば信心でなからにゃいかんです。そういう意味で今度の寒修行は、たいへん私は嬉しいことであったと思います。しかもその寒修行のね、その初日の日に、もう言うならば、自分の目先の小さいおかげなんかにかける、というのではなくて、本気で信心の稽古の姿勢。言うなら大祓信行が、の徹底が言われる、その大祓の姿勢づくりの為に、と言った様な信心を。
 ならば焦点にして信心の稽古をさせて頂いたということが、ほんとに有り難い。ね。そういう信心を言うならば三十四日間続けてこられたおかげでです、ね、例えばならさあ寒修行が終わったから、もういっぺんにストッとお参りがなくなったじゃなくて、この様にみんなが一生懸命、信心矢張り精進をしておられると言う所からです、ね、それこそ佐田さんじゃないけれども、一ヵ月間の修行の中にです、言うならば信心の、これは金光様のご信者としては当然のこととしての信心。
 しかも「天地日月の心になることが肝要だ」と言った様な所が、段々分かって来られて言うなら「日月の心になること肝要だ」と言った様な所を、今日は皆さん現しておられるのだと、私は思います。ね、願わくばそういう信心
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